楽器としての身体

仕事場を出たところから見えた高崎の空

群馬は山に囲まれているので

稜線が美しい。


昨日は歌っていた。

歌い始めるとき、

声出しをしながら


懐かしい感覚を感じていた。

楽器を吹いていた時と同じ感覚


楽器を鳴らす、あの感じ


声はもちろん、身体が楽器となるのだけど

声=身体=自分と思っているので

声=自分


自己価値が低い段階では

「自分の声が好きになれない」

という感情が出たりする。

私もそうだった。とても長い間。

それで4年間もボイトレに通っていたわけで。


ボイトレで「器官」としての喉、そこから出る「音」としての声

という感覚にはなっていったけど


やはり声=自分だった。


それが、昨日は分離していた。

身体は私、、ではなく、身体は「私のモノ」という感じ。



アルトサックスを吹いていた時、

アルトサックスとしての音色を良いものにしたい

と頑張っていたわけで。


その感覚がよみがえった。


私の身体は、この音(声)が鳴る。

そういう楽器(肉体)を私は持っている。


だもの、この声が良く鳴ればよいわけで。



それが、自分の声が嫌いだからと

一生懸命別の声を探したりしてねぇ。


それはアルトサックスを吹きながら

あっちのフルートの音を出したがるのと同じよねぇ


って、ちょっとおかしかった。


アミーゴさんが気楽に力を抜いて録音してきた

ガイドのボーカル


それは私が歌う歌なんだけど

ヘッドホンで、力の抜けたアミーゴさんの歌を聴きながら


あんまりエェ声なんでちょっと悔しくなった笑

ちくしょーいい声だな、、って。


これがある意味本気の声か、と思った。

(ブレーキ踏んでない自然な声)

いつもそう歌えばいいのにねぇ。


…と、思う私も、同じことです笑



Cynthia Roses 布と花と歌の日々

気が付いたら…縫って、お菓子作って、また縫って、仕事で縫って、たまに歌を歌う日々。 群馬県の高崎駅周辺で暮らす中年女子の日常。