ドリームキラーは自分だった

ここのところ、
時間が経つのも忘れるほど
没頭していることがあり

毎日がぎゅうぎゅうに過ぎていく。

没頭しているのだから
もちろん楽しい訳なのだが

今日は違和感があり、
お陰で
とても大きなブレーキを発見した。

私は若い頃から
いつも身近に「ドリームキラー」がいた。

親に始まって、学校の先生、友達、
部活の先生、先輩、同僚、上司、夫、息子、

…等々、こうして書いてみると
ほぼすべての人がドリームキラーってことになる。

今日、私が没頭していることに対して
息子がどうのこうの言ってきた。

それは息子なりの親切から来る言葉だった。

…今思えば。

ところが言われたとき
瞬時に

「またそんなことやって、なんの意味があるの」

という意味合いで言われていると
捉えてうへっとなる自分がいた。

あ、この感じ、いつものやつだ。

とだけ感じて
とりあえずセルフヒーリングで
波動を調整した。

ところが、その後で
また没頭していると
しばらくして意識の中に

「こんなことやってていいのか」
「本当に大丈夫なのか」
「また、いつもの思い付きじゃないか」

と、罪悪感にも似た
自分を責める思いが沸いていることに
気がつく。


なんだ、これかぁ!
これ、いつもじゃんか!

全然気が付かなかった。
そういうことを思いがちってことに。

いや、もちろん知ってた。
知ってたけど
捉えてない。

ここが、アセンションの肝でもある。
捉える事さえ出来れば
もうそのネガティブバイブレーションは外れていく。

わかっちゃいるけど辞められない

の部分だね。
捉えてないから、辞められないの。


ちょっとビックリした。
なんだ、そういうことだったのか。
自分を制限しているのは自分じゃないか。

思う通りに動ききる、それだけでいい。


突っ走る。
それでいい。


この強いサイドブレーキを引いたまま
アクセルをふかして動いていたってこと。

強い力が必要だと感じて余計踏むよね、アクセル。


サイドブレーキを外せば、
アクセルに足を乗せるくらいの軽いタッチでも動くじゃない。

サイドブレーキとは罪悪感のことを言ってるんですよ。

あ~、良かった。外れて。
また楽しく頑張れるね。



…ということで
不平不満の多い人、いつも身の回りの人に嫌な思いをさせられているという被害者意識の強い人は

罪悪感が強くて、自分を責めてるかもしれないね。

その罪悪感も、訳のわからない価値観から発生してることが多いと思う。
てか、ほぼそう。

だって、罪悪感はあり得ないもん。

もともと無いからね。

自分で自分を不自由にして
その気分でいれば
親切が攻め口や嫌味に聞こえてしまう。

その状態が続くと
波動が下がって、具現化してくる。

つまり、本当に、明からさまなブレーキをかけられるようになる。

その現実を打開するべく
更なる努力を重ねて

「他人に文句を言わせないようにする」
「見返す」

と、複雑化して
行き着くところは



恨み。


私も、ほんの数年前までは
バッチリこのパターンで
自分の恨み深さに嫌気が差すほどだった。

いつも見返すことばかり考えていた。

ヤバいね~。
めーっちゃぶっこんどったね~
こわ~笑

いや、当時は本当に、苦しかった。
死ぬほど頑張っても、
頑張れば頑張るほど苦しかった。


今では
もう思い出すのも困難なほど
楽になっちゃって

本当に、本当に、
良かった。
あー、助かったーみたいな笑

今日のは
見えないところにくっついていた
かさぶたみたいなものだね。

こうやって、一つ一つ
ネガティブバイブレーションを外していく。

それが、肉体を持って生きている我々の
アセンション。

いやー、凄いね~。
ダイナミック、臨場感そのもの
解放されていく感覚がものすごくてね~

スピリチュアルとかいってる場合じゃないよ。

そんなもんじゃない。

本気の現実に生きるって、
祈ることよりパワーあると思う。

天使の言葉より、
自分本体からやってくる感覚がリアルでしょ。


わかっちゃえば簡単なこと。
わかるまでが困難を極めるので(時間もかかる)
サポートさせてもらってます。


Cynthia Roses 布と花と歌の日々

気が付いたら…縫って、お菓子作って、また縫って、仕事で縫って、たまに歌を歌う日々。 群馬県の高崎駅周辺で暮らす中年女子の日常。