意識を書き留める7月23日

◆「思わない」状態をキープ

昨日はセッションで
現実といわれるシステムに気づいて
そこからの分離と統合に入った
かなーり微細で難易度の高い波動域の話になった

この段階にはいると
到底ブログの平面的言語だけではうまく言い表せない内容になる。

本筋を伝えていくためには
直接の会話を3次元に比較的近いところから折り紙を折るように
組み立てて進めていく

折り紙…そう。
折り紙のよう。

折り紙は山折と谷折、それから広げるとか膨らますとか
いくつかの限られた作業を最後まで繰り返して

一枚の平面を立体の造形物に変化させていく。

それに似ている。

一発で完成形に持ち込めない。
それに似ている。

だから、最後の確信部分を伝える言葉は
セッションのはじめの方でしゃべっている内容と似ている、同じだったりする

けど、まるで違うことが伝わっていく。

我々の意識の構造が
そういうものだからね。

宇宙とかゼロポイントと聞いて
結構な人が空を仰ぎ見る。

上を、向くんだね。

もうこの時点でずれていることに気付かない。
それはなかなか気付かない。

じゃあどこを向けば良いのか



どこも向かない。
なにも動かない、動かさない。


動かないんじゃぁなにも変わらない
って思っちゃうからね(私の話)

一旦動いてぐるっと回って
またここに戻ってくるっていう作業を
せざるを得ないんだよ

そうでないと体感できない。

ところが動いて出た先で留まったまま戻らないことがチョー多い。

天使とチャネリング辺りで留まっちゃう。
いわゆるスピリチュアルと呼ばれる分野だけど。そこから脱出出来ないんだよーこれが。

もう、私には古い感じがする、スピリチュアル。


…で、「思わない」のこと

思わない、っていうのは
時間軸をはずしていく作業

さっき、とかこの後、とか
そういう時間観念を
我々は常に思考の中に走らせている

これを捨てていく。
「今」にだけフォーカスして
思う、、というより
「感じる」に徹する。



◆期待と現実のギャップ

我々は常に「期待」という
仮想空間の妄想劇場を持っていて
その妄想を基準として

現実に起こる出来事の価値を判断している。

妄想劇場の通りに出来事が進んで初めて「平和や幸せ」になる。

妄想劇場の通りにならないことが起こるととりあえずガッカリして、次に悲しみや怒りがわいてくる。

「期待」と呼ばれる妄想劇場
それがいわゆる

あるべき姿、とか普通こうなるでしょの観念
あとは、親や教育、社会の影響で形成された、いわゆる「理想」なんかもそうだね。

あと、そうそう。
よくある「目標」てのもバッチリそれだ。
(ワクワクの衝動から来る目標とは違う←わかりづらい)

現実を生きているんだけど
現実の前に妄想劇場フィルターをかけているために

現実を本当の現実として見ることができないでいる。

その妄想劇場から目を醒まして
現実を、とてもシンプルな現実としてちゃんと生きること

それがアセンションといえる。

この、妄想劇場が妄想劇場だと全く気付かないところに
アセンションの難しさがあるんだよ

玄関開けたら自動的に靴を脱ごうとする。
でもそれって日本などの特定の地域で行われていること

それが地球の正解じゃない。
ひとつのスタイルでしかない。

そんなこと普段は考えないわけだ。
それと同じくらい
「あたりまえでこれが正しい」
という具合に意識の中に入り込んでいるんだよ、すごいよね。

ここに気付いて
妄想劇場の舞台から降りると

毎日がこんなにシンプルで気持ちの良いものだったとピカピカしてくる

それは…
歯が腫れて激痛に見舞われても笑
(ここがミソだ)

今、問題だと思えることは
何一つ問題ではないということ。


Cynthia Roses 布と花と歌の日々

気が付いたら…縫って、お菓子作って、また縫って、仕事で縫って、たまに歌を歌う日々。 群馬県の高崎駅周辺で暮らす中年女子の日常。