断定しない美
ここ最近としては珍しく本を読んでいる。
Amazonプライムで勝手に読める本だけど
「在る」ということについて書かれている。
会話形式で「探求者」が「ある御方」に真理を教えてほしいと尋ねている。
その「ある御方」の言葉が
まさにドンピシャで
そうであって、そうでないもの
この、ハイエストセルフ、統覚視点、マインドのそこら辺をゆらゆらと遊びながら、敢えて言葉にしてみる感じ
これが、たまらなく美しく、難解で、まさにその通りで、時々見失いそうになりつつも、その難解さを敢えて解読しようとしない私自身のゆらゆら感と絡めてみたり…
心地よい♪
この内容を、今のご時世に当てはめて、私というフィルターを通しアレンジして身近な人に伝えようと翻訳するならば
「断定しない美しさ」
となろうかと。
SNSやニュースを「見張って」
あの人は正しい(良い)
この人は間違っている(悪い)
と常に判断し、断定し、固定して
その次の段階として
SNSに「考えを投稿」という行動に出たりね。(この文章も同じ)
ではあなたが断定したその考えは完璧ですか?
と問いかけたとき
あなたにとって、完璧
であるが
あなた以外にとって完璧であるかどうかは「わからない」。
1+1=2は完璧か?
と問われたとき
完璧だと感じた人にとって、それは完璧であろうが
中には「そうともいえない」という人がいたりする。それは、その人が人間関係に強く関心があった場合
「1+1は3にも4にもなりうる」と考えるかもしれない。
それで、その考えは間違いだと言い切れる人には完全に間違いだが
なるほど、そういう考えもありかもと感じる人にとっては「間違いとは言えない」となるかもしれない。
全ては「感じている私」の中でのみ通用する価値観だと「気付いていること」。
そこがわかるなら
何を読んでも見ても聞いても
とりあえず腹は立たないね。(笑)
他人を見張っているようで、実は自分自身を見張っているだけだと気付けば
や~だ~遊び~♪
って、ネガティブがハズれる。
そして、今私が書いているこの文章、
自由に書いているわけだが、
このように書くことはあらかじめ決定されている。
完全な自由でありながら、同時に全てがあらかじめ決定している。
…というようなことが書いてある本を、
読んでいる。
と、私は認識している、ってことだね♪
楽しい♪
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