日常の一瞬一瞬が全て

今日もいつもの1日であって、
なんということもなく過ぎていった。

昼御飯は広島式のお好み焼きを焼いてみた。
あぁ、やっぱりこれが好きだな、と嬉しい。

コサージュ仕事をひと区切りさせて、一旦花やらワイヤーやらを片付ける。

楽天で靴下が売れた。

夕飯はエビフライを作ってみた。
やっぱり好きだわ~

昨日買ってきたケーキの残りを食べて(ここも乗っかる)、紅茶を飲んだ。

粘土マカロンの製作をする。(仕事だよ)

こんな風に一日を過ごしつつ、治りかけた史上最大の口内炎が少し痛んだり、なんか食べ過ぎて胃が満腹だったり、外の空気が冷たかったり、ウサギが足元でブーブー言ってるのが可愛かったり

「感じている」。

そういう、日常のあらゆる瞬間に
「私は感じている」という意識が持てているか

そこが大事なのですね。

朝、起きたときのグラウンディングの瞑想と、夜寝る前の感謝の瞑想

それはそれで尊いんだけど、それだけをやることで何かが変わるかというと、いくらかは変わるけどあるところからは変化しない。

ここで、大きな岐路に立たされる。

ここから先、行くか行かないか。

ここから先は、今までの意識からだとベールに包まれている感じがするかもしれない。

冬至を越えて私が感じている、
このベールの中?向こう側?こっち側?

いずれにしても、今まで感じてこなかった領域に足を踏み入れてみると

あ、なんだ、そんなことか。

となって、またまた現実世界に平和感が色濃く感じられるようになる。

ベールの向こう側に行く、と決意するならば
一旦、腹をくくるってことがいくつもあって

ここの往生際の良さがね、キレを呼ぶ。

往生際を良くするための必殺技として、
3次元の通常感覚に一番近い表現としての言葉がさ、

「あきらめる」

なんだよね。これが。
楽しいことを探すのをあきらめる。
ムカついた相手に怒るのをあきらめる。
お金をどうにかしようとするのをあきらめる。
使命を見つけるのをあきらめる。
ブログのアクセスを増やすのをあきらめる。
素晴らしくなることをあきらめる。
誰かに勝つことをあきらめる。

あきらめる、っていう言葉には「負ける」みたいなニュアンスが漂うでしょう。
承認欲求がまだ強い段階の人にはちょっとハードな壁かもしれない。
あと、年齢的にまだ若い人も、難しく感じるかもしれない。

でも、この「あきらめる」は、負ける意味合いは一切含まない。

執着を手放す、と言い換えられるかな?
ところが、執着してる人は自分が執着してるってことを自覚するのが難しいため、
「あきらめる」って、よく切れるナイフみたいな言葉をあえて用いるんです。

潔く切られて往生してみな、って言ってんの。

それくらいの意識転換を必要としてるからね。切られて往生したら、すごいんだよマジで。
それまでの自分の執着ぶりに驚くはず。笑

それでね、そこから始まります。
驚くほど平和で穏やかな心と、愛にあふれた人間関係。物質や承認欲求に振り回されないことがこんなに豊かで楽なことなのかってね、嬉しくなっちゃうね。


なんだけどね~
往生際が、なかなかスッキリしづらくて
ここ、悶絶ものでね、
知らせやお試しも散々来るのに
腹をくくれないんだよね~

それで、方向がズレて自分を責めたりして更に反れていく。

そんな時は、
そんな自分を、許すことからスタートです。


Cynthia Roses 布と花と歌の日々

気が付いたら…縫って、お菓子作って、また縫って、仕事で縫って、たまに歌を歌う日々。 群馬県の高崎駅周辺で暮らす中年女子の日常。