リアリティ
通じ合うとか
わかりあえる、とかね
人間と人間の間で「繋がる」っていうことは
1ミリも無いんだってこと、
たとえ肉体的に触れ合う時間が長時間であったとしても。
これが大前提。
例えば、私がつまづいて転んで膝を強打したとします。
私はキョーレツな痛みで震えながら「いってぇぇぇぇぇ~!!!」
と痛がりますけど、
この、私自身が感じている「痛み」や「ショック」を
地球上に存在する誰が、、感じることができるでしょうか。
私の痛みをそのまま感じることの出来る人は
ゼロ人だとわかるでしょう。
私が感じている感情、感覚、色彩、考え
あらゆること、全て、
誰も感じることは、永遠に無いわけで。
目に障害があって、色の識別が若干青みがかっている人ならば
その人が感じている「色味」は私が感じている色味とは異なってくる。
私が「この黄色素敵」と言うと
その人も「ホント、素敵」って言うかもしれない。
だけど、その人の色彩感覚は若干青みがかっているから、
実際には緑っぽい黄色に映っているはず。
でも、その人は青みがかった色彩感覚で捉えた「黄色」を素敵っていう。
私が見ている色とは違うけど、素敵だって。
…この平行線は永遠に続いて
何処までいっても交わることが無い。
「あぁ、貴方の見ていた黄色って、こんな色なんだ」って認識する日は
永遠に来ない。
それが、人間という宇宙の本質。
だもの、私の気持ちわかってよ、とか
なんでそこでそういうことするかな、とか
分かり合えないと嘆くとか
その延長で
私のことシアワセにしてね、とか
…ありえないわけ。
これつまり「承認欲求」が永遠に満たされることは無いということの証しの一部かな。
誰でもそうですけどね、
自分が認めて欲しいように、他人に認めてもらいたいわけです。
可愛いって言ってもらいたい人が
「優秀ですね」って褒められても、嬉しいけどそうでもない、、みたいなね。
ピントがズレてるとか言っちゃうわけ。
ピントがズレてると「わかってもらえなかった」って。
お互いの意識は通じ合うことがない。
どんなに言葉を尽くして語りあったとしても
相手からどんなに説明してもらったとしても
その言葉を受け取る私の認識でしか
言葉の意味や感覚を理解することはできない。
それは、永遠に出来ない。
じゃぁ、一人で生きていけばいいのか
っていうと、そうしたい人はそれでも良いけど。
人と人が関わることの価値って何だと思う?
「自分の宇宙の輪郭を確認する」
っていうのが、ひとつの作用かなと私は感じてます。
自分の意識という「宇宙」と
誰かの意識という「宇宙」が全く別物なんだ、ということが
本当によくわかると
どうなると思う?
冷たい人間関係になると思う?
逆です。(と私は思っている)
相手の宇宙(認識)を尊重する、という姿勢になるので
とてーも優しい関係性が結べます。
全く別の宇宙なんだけど、
全く分かり合えない存在なんだけど
あなたがそう感じたということを大事にします。
あなたと接したことで
私は自分がこういう気持ちになるんだな、って気付くことが出来ました。
誰かとの関わりによって、
自分が何かしら反応するでしょ。
そういう反応をしてしまう「自分」なんだ、って自分が気付かせてもらうってこと。
あくまでも「自分」を感じるだけでしかない。
それは、自分から生まれた子どもであっても、もちろん同じ。
子どもは私の宇宙とは完全に別の存在。…でしょ。
そして
ちゃんと「別の存在」「別の宇宙」と理解できると
その先に繋がっていく
ワンネス
という領域に気がつく段階に一歩近づきます。
全く別の存在だけど、
究極は繋がっている。
分かり合えないけど、
究極は繋がっている。
この、「究極」ってのがゼロポイントで、、
その次元に気付く段階に差し掛かるところまで来ると
過去の、、依存的でエンドレスな承認欲求の渇望状態とは全く異なる、、
愛に満ち溢れて、とても平和な意識状態を体感することになります。
人間関係の苦しみは
ここが心の底から理解できて、
そういう意識に完全にシフトすると
解決します。
この辺が、、、ね、、
3次元的な言葉の説明では難しい。
限界です。
なってみるとわかる、ってことしか言えない。
なってみるとね、なーんだってなる。
どこがリアルなのか、っていう認識が変わってきちゃう。
今、目の前で起きている
いわゆる「現実世界」がリアルだと思ってきたけど
実は全然リアリティが無い世界だってことに
気がつくところに来ています。
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