結局のところ
今日は母親の仕事(実家は自営業で、70才代両親とも毎日バリバリ働いてます)に付き合って運転手で、名古屋市内。
独特のね、空気を感じる。名古屋って。
でも、この「空気」って、
「そういう空気」が名古屋には存在するのかと思うでしょう。
じゃあ誰でも名古屋に行けば「その空気」を感じられるのかな?って。
それで、実際に名古屋に来てみて、「その空気」を感じてみようと思ったら、全然感じられない。
あぁ、やっぱり私にはそういう能力は無いんだわ、飯嶋さんだからそれがわかるんだね
なんてことに、、なるでしょうね笑
それ、当たり前の話なんだよね
…飯嶋さんには能力があるからわかるってことが当たり前なんじゃなくて、
飯嶋さんにわかることが、他の人にはわからない
ってことが当たり前なの。
これを読んでいる人が例えばいたとして(いや、いるの知ってますよもちろん)
私の書いた文章を読んで何かを感じたとする。
その感じ、って
感じた人だけがわかる世界じゃない?
「あのブログ読むとこういう感じがする」
って誰かに伝えたとする。
えーそうなんだ、じゃあ読んでみるね
って、別の人が読んだとき
おんなじように感じるか、、
どう思うのかな。
似たような感じを感じる可能性はあっても、全く同じようには
絶対に、感じない。
それ、当たり前でしょう。
だって別の脳ミソが感じてるんだから。
それなのに
「私は同じようには感じられない」
と言って落ち込んだり
逆に反感を感じたり、、。
名古屋に独特の空気を感じる
ってのは、私の個人的主観的感覚、、
もっと言えばそれをこんな風に話題にしちゃってる「思考」でしかない。
だから、私以外の人は、私が感じている「名古屋の空気」を感じることは永遠にない。
誰一人として、感じることは、無い。
視点を変えると
私は「名古屋」に「独特の感じ」を持っていることになる。
もっと言うと、私が「名古屋」を独特のものにしている。作っていると言っても良い。
この事が理解出来ているかどうか、が
あらゆる問題を解決するための大前提となるわけですが
そこんところがどうなっているかっていうのも、全くおんなじことで
私は、厳密には私以外の事を知ることができない。
セッションでコミュニケーションを取ることが出来れば情報交換して、「似たような感覚」に近づくことは出来るかもしれない。
だけど、完全に知ること(実感すること、味わうこと)は出来ない。
そのことを、私自身が深く知って、パラレルシフトする必要があるってことをここ最近、改めて痛感している。
例えば…
クライアントさんの話を聞きながら、とかメールのやり取りとかブログを読んだりして
「あ、波動下がってるね」
なんて感じることがあります。
その時私がすべきことは、感じたこと自体を飛ばして消してしまうこと。セルフヒーリングする、と言っても良い。「何か」を感じるのは感じますからそれでいいんだけど、それが「波動が下がった」という具体的な内容になるとき、もうすでに「思考」です。それに対してこうした方がいいのになとか、あら下がっちゃってるねとか、あれこれ考えが動き始めたらもうそれは完璧な「思考」であって
その思考がゴミとなって私の意識が雑雑となる→私の波動が下がる
ということがおきます。
私の中で、相手の波動を下げている犯人が私ってことになる。
じゃあどうすればよいのか
私が、私自身の意識の掃除をして、自分の波動を上げる
それだけ。
ま、つまり、
誰かのことが「低く」感じるのは
感じている「私」がその人を低く下げている。
判断をする
ということは、そういうこと。
誰かの事を下げる時、
他ならぬ自分が、下がっているってことに
気がつくまでに
相当時間がかかりました、わたし。
よくよく気をつけて、自分の意識の様子を大事にしなくちゃ!
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