欲しがり屋さんさようなら
地球人は多かれ少なかれ
「欲しがり屋さん」なんだってこと。
先日のセッションでもそこんところを
”上”がプッシュしてくる。
認めて欲しい(承認欲求)
という欲求はデフォルトで強くて
ここが苦しみを増すってことに気付く人は多いと思う。
スピリチュアル系で行くと
「目醒めの感覚」を感じたい(欲しい)
「チャネリングできる私」になりたい(欲しい)
とかね、ま、フツーにあるあるでしょう。
ところが、上のスピ系「欲しがり」は
更に細かく分解すると
「ヒーラーの誰それさんみたいに」
という感じがくっつくことも多いんだよね。
チャネリングしている人を見ると、まず
「凄い」
と感じる。実は、ここがまず大きな修正箇所。
つい勘違いをしやすいところ
チャネリングできるようになりたいんじゃなくて
その人を見て感じた「凄い」、、、になりたい。
つまり
「凄い自分」になりたい。
ところがチャネリングなんて全員できる
当たり前のことだから
「これがチャネリング」とわかって
チャネリングできるようになっても
え?なんだ、こんなこと?
全然凄く無いじゃん。
こんなはずじゃない。
チャネリングが出来るようになっても
「凄い自分」になれないので
更に「凄いを感じさせてくれる人」探しを始めちゃう。
大きな舞台の上に立って
脚光を浴びている人を見て
「もの凄い」と感じる
大きな舞台に立ちたい、と思う時
舞台に立つことが好き、、という人ももちろんいるけど
欲しがり屋さんはそうじゃなくて
その、「もの凄い」が欲しいのね。
「もの凄い自分」になりたい。
なんで?みんなが凄いって思ってくれるからでしょ。
「周囲に凄いと思われる自分」になりたい。
これが、欲しがり屋さん。
「他」とか「外」が自分をどう見ているかを
激しくガン見している。見張っている。
飢え乾いている。
…私のことですけど。(爆笑)
自分が欲しがり屋さんだなんて
ちょっとプライドが許さなかったりしない?
こんな豊かな日本に暮らしているのに
心がキョーレツに飢え乾いて物乞いしている。
物や安全に満たされながら
乾いた心が「欲しい欲しい」と泣き叫んでいる。
「自分には何も無い」
「何が好きかわからない」
「使命がわからない」
これみんな、欲しがってるから出る言葉でしょ。
私の場合は行動に出すタイプだから
とにかく時間を埋める。暇を作らない。
飢え乾いているからどんどんつかんでどんどん埋める。
満たす。満ちているんじゃない、満たしてしまう。
それがお花の先生をやっている時の私だったね。
いわゆる「成功」はしやすいけど、苦しみからは抜けられない。
今はさすがにやめたけど笑
実は満ちてたってことに気付いたから。
欲しがり屋さんだっていうことを
自覚するのはちょっと難しい
実に巧みに欲しがっている。
欲しがっていないふりをして欲しがる。
それほど意識は欲しがることに執着する
欲しがることをやめると
得られなくなると思い込んでいるからね。
だから、欲しがるのをやめるのは
感覚的には「あきらめる」に近い感じになる
(ホントは「手放す」だけど)
勇気が要るほど、、
欲しがるのをやめるのは簡単じゃない。
気がつくと、欲しがっている。
だから、一旦、勇気を振り絞って「あきらめる」。
欲しがるのをやめると
空しさがやってきたり
不安を感じたりするかもしれない
だけど、
欲しがるのをやめて
少し時間が経って落ち着いてくると
日常が違って見えるようになるかもよ。
何も変わらないのに
今までと違う見え方になってくる。
今、私は、自分の中の
かなーり奥の方や
パッと見わからないような
細~い隙間にしれ~っと入り込んで
当たり前のような顔をして堂々と存在していることに気付いて
「欲しがり屋さん」のヒーリングに
1日のかなりの時間を割いている。
いくつか前の記事?の「大きなオール」の正体は
この「欲しがり屋さん」。
欲しがり屋さんは必死だしね、パワーが強いから
立派な「力」なわけ。
欲しがりパワーで頑張ってみても
欲しがり屋さんを手放して楽になっても
大きな河の流れに乗っかってることに変わりは無い。
ただ、欲しがり屋さんパワー全開で漕ぎまくると
本来の河の流れとは違う場所へも行けちゃうと思う。
ま、それも自由選択。
楽しみや趣味の範囲だよね^^
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