書き留めておく8月8日

昨日の、というか今朝未明のこと。
目が覚めてなんとなくスマホを見た。
飛び込んできた文章にネガティブ反応する。


誰かが書いた文章、発した言葉にネガティブな反応する

というのは、
今までの波動域で話をすれば
その内容に「食いついちゃう」自分と向き合うかどうか、みたいな話になるわけだが

実はそこにとどまっているのも
ガッチガチの三次元思考なんだ。

書かれた文章、言葉というのは
本当の物理次元でとらえるならば、

「黒くて細い直線や曲線を組み合わせて並んでいるモノ」

記号といえば少し馴染むか?

…でしかない。


その線の羅列を見ながら
日本人であって日本語を使ってきた私は
その言葉に「意味」を見いだす。自動的に。
何をいっているのか理解する、ということだね。

それは、そういう仕組みだからそれで良い。

が、そこにとどまらないわけだ。
書いた人の「気持ち」とか「意図」を

汲む。

問題はこの「汲む」にある。
汲んだのは誰だ?

私です。
汲んだ上で判断する。自動的に。

その判断がポジティブだったりネガティブだったりする話で

汲んで構築した妄想劇場の中に
どんどん引き込まれて
自分のなかで議論が始まったり
格闘したり、対処したり
更に波動を下げて没入状態になると
その妄想劇場に対して行動に出たりする。
コメントいれたりとかね。

記号の羅列に意味を与え
意図を汲んで妄想劇場を立ち上げる

それをしたのは誰だ?

私です。


街で誰かが騒いでいたとする。
それを本当の物理次元でとらえるならば

人間型の物体が音を発しながら動いている

となる。
それをある人は迷惑行為を行っていると感じてネガティブ判断して「ヤバいやつがいる」という妄想劇場を立ち上げる。

また別の人は
テレビ番組のドッキリに違いないと感じてそういう妄想劇場を立ち上げ、周囲を見回してテレビカメラを探すかもしれない。

そこに10人いたら、似たような劇場を立ち上げる人が8人くらいいるかもしれないが、詳細を見れば全部違う。

人は、自分の世界の中で
自分の認識の範囲内で見えるものを判断し、対処する。


結局
あぁ、私はまだまだだいぶ甘いな、と

高次元から提示された、、ということだ。
モノがちゃんとモノとして認識できること
そこに自分の印象や判断が一切入らないこと

そこに何も意味や意図は存在しないこと


先月末、それを感覚的に垣間見た。
大きなシフトが起こったときだ。

その静かで穏やかな「すやすや」感はこういう認識になると起こる。


見える景色がただの映像のような感じになる。
私が感じているのは
私の内側から涌き出てくるアイディアとかエネルギーとかそういったもののみ。

すべきこと(仕事とか家事とか)を淡々とこなしながら(やることになっているので)
自分のなかで湧いてくるアイディアだけを汲んで行動しているので

基本的に何をやっていても常に楽で楽しい。

もやっとするのは、上に書いたような妄想劇場が立ち上がる時だ。

習慣性が強いので
妄想劇場はホントに気軽に、しかもしょっちゅう立ち上がる。立ち上がりっぱなしなのが地球人の標準かな。

それを全部やめていこうって言う話だからね。

現実に生ききる、というのは
他人のことをああだのこうだのと言いたくなるような世界とは無縁。

更にいうと
他人のことをあれこれ書いている文章に引っ掛かるってのも
その人の妄想劇場にガッツリ見いって、自分も同じ次元の妄想劇場を立ち上げてる観客ってことだね。

ハァ、ビックリしたよ。まさに目が覚める。

自分を修正して、文章が黒い直線や曲線に見える感じになったなぁ~

と感じた次の瞬間は朝、、いや、10時過ぎてた。

良く眠れました。

Cynthia Roses 布と花と歌の日々

気が付いたら…縫って、お菓子作って、また縫って、仕事で縫って、たまに歌を歌う日々。 群馬県の高崎駅周辺で暮らす中年女子の日常。