伊勢神宮で波動調整
私の外側の動きは
さっき書いた記事が全てであって
この旅の間中、もっと言うと
その前からずっと
私の中では大きな波動域シフトが起こっていた
今、ひと段落して
その記憶を整理して
自分の覚書きとして書きとめる。
今回のシフトは
とても大きなものだったと言える。
どうなることを言うのか
そのためにどういう気付きがあるのか
通常の日常モードで言えばどの辺をコントロールすればよいのか
などなど
情報が整理された。
「伊勢神宮で波動調整」とタイトルにしたが
何か特別な瞑想をするわけではない。
そもそも「波動調整」ということが
どういうことを指すのか
そこがちっともわからないものだ。
ところがいろいろわかってみると
なんだ、そんなことか。という程度のもの。
すごい人にしか出来ないと
思っちゃうとしたら、それは完全な「洗脳された状態」なのだ。
洗脳された状態から「目醒める」と
あ、なんだ、誰でもやってることじゃん
とわかって、、ある意味、、がっかりする笑
それほどに当たり前のなんでもないこと。
言葉での説明が難しい領域ではあるが
あえて説明してみると
「その雰囲気に自分が関心を持って”居る”こと」
て感じか?
だから、伊勢神宮の清々した波動の高い空間で
波動調整する、っていうのは
余計な考え事や心配事を取り払って
伊勢神宮のスッキリした雰囲気を満喫して
その中で居心地良くゆったりしっくりできる状態になること
心底気持ちよく過ごす。
と言ったらいいかな。
伊勢神宮にいても次のスケジュールが気になる、、
というのは伊勢神宮に波動調整しているのではなく
「次のスケジュールや、時間、それに伴う心配や焦り」
に波動調整をしていることになる。
例えば苦手な人、嫌いな人がいるとする。
その人を見るたびにあれこれ言いたくなったり
葛藤が湧いてきて、その葛藤をどうにかしようともがく場合
これは、その苦手な人、嫌いな人に波動調整をしていることになる。
合わせなくてもいいのに
わざわざ嫌いな人に自分の波動を合わせていく。
関心を持っていく、と言い換えられるかな。
苦手な人、嫌いな人
その人は自分にとって何の関係もないとしたいのならば
「何も感じない」
というのがその人に自分の波動(周波数)を合わせないことになる。
嫌い、苦手、、と感じて(感じるだけでクリアしてしまえば問題なし)
感じただけでなく葛藤になったり、更に何か言いたくなっちゃう場合
その対象のことを「ガン見」して「一生懸命になっている」んだ
ということに
ま~ず気付かない。
ここが厄介ですな~
私も超絶苦戦した。
波動調整、、日常の生活は
それの連続だ。
みんな、時々刻々といろんな物事に波動調整しながら生きている。
それに気付いているかどうか
そして、どんなことに波動調整したいのか
どんなことに波動調整したくないのか
それを自覚するってことが
大事なんだよねぇ。
この、「気付く」っていうこと
ハァ、悩ましいほど難しいね。
みんな、当たり前と思っててね
気付かないの。
私は、本当に長い間
気付けなかった。
もう、気付いたから
お伊勢さんではばっちり波動調整できたけどね!!
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