分水嶺(ぶんすいれい)
…と、私は良く言っているが
明確な定義は特にない。感覚的なものだ。
が、ある程度の目安はある。
…ていうか、一体なんの分水嶺なのか
分水嶺っていうのはもともとは山の水源であっちとこっちに水の流れが変わる地点、、を指す言葉だけど
それを用いて「物事の方向性が決まる分かれ目」を例えた言葉だ。
私が言っているのはもちろん
アセンションへと向かうある「分かれ目」を指している。
この意識の旅は言葉で明確に解説するのが結構難しくて
きれいにわかりやすく伝わるように書くことが困難(故にそういう意図は基本的にはありません)。
セッションしていても、言葉で理解できたとしても
波動が変化するかというとそういうわけでもない。
むしろ、言葉で理解しようとしているうちは波動は変わらない。
体感する、ということが大事。
おとといのクライアントさん、だいぶ長いけどね
ついにその分水嶺に来たね。
セッションの前日に
「あぁ、もう何かを手に入れようと頑張る必要はないんだ。このままで良かったんだ」
「不思議な安らぎと愛に満ちた感覚に包まれた」
そんな風に表現していた。
おぉ~、ついに来たね~!!
「このままで良かったんだ」
「何もいらない」
「今までの自分で、今のままで十分幸せだ」
こういう感じになるわけだが
言葉でこれを聞いて(読んで)
そう思おう、何かあったらアファメーションのように自分にこう言って聞かせようとして努力しても
これはそうはならないんだよね。
本当はそうじゃないのに、そういうことにしてる、、どまりになる。
この感覚がやってくるときっていうのは
今まで生きてきたどの感覚ともまるで違って
ありえないような安らぎと軽やかさと
肩の荷がごっそり落ちる感半端ない感じ
どこにも力が入ってなくて
ただ風に吹かれているだけのすがすがしさ
なつかしさを感じることもあるだろうね。
あまりにも別世界なので、どうしてこんな風になっちゃったんだろう、って最初は感じるくらい
意図せず突然湧いてくる。
こういう感覚を瞬間でも味わったなら、
分水嶺を越えた、と私は表現している。
その後はずっとそれが続くかと言えばそういうことはほとんど無いと思う。
元のしんどい状態に戻ったり、
再び「あの感覚」がやってきたり
ゆらゆらと揺れながら、行ったり来たりしながら
それでもコミットしていれば
すべきことをきちんとやることになるので
必ず「あの感覚」へと戻ってくることができる。
小さな努力を怠らなければ
始めは驚いて戸惑いさえ感じた感覚が
普通になってくる。
本気の波動域変化が起こる。
いいね~。
でも、それで終わりじゃないから。
そこからがまた長いんでね。
最終的には、昨日書いた最後の方、、だったっけ。
日常の人々とのフツーの関わりの中へ戻っていく。
とても心地よく。すがすがしく。
なんでもない私、として
それまでのことが何もなかったかのような
何も変わらない環境で
同じ人々とともに生き
肉体の劣化にいくらか抗いながら(健康第一♪)
肉体に入っている限り地球での日々の体験を満喫する。
特別なことなんて何もない。
昔の自分と何も変わらない
私は、ただの私。
なのに、まるで別世界。
たとえ目の前で人が戦っていても
人生ゲームを目いっぱい楽しんでいる人を眺めているような
平和なまなざしで眺めておしまい。
みんな、地球を満喫してるね!!!
今、この瞬間も。
さぁ、今日はこれから型紙切ろう。
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